[第1章] 第2の人生への門出

 
  彼の頬には明るい笑みが浮かんでいた。少年が祖母から、喉から手が出るほどほしかった
玩具を貰えることになって、彼女の家へ向かうときのような、ウキウキとした気分に浸っていた。「好きな絵を思い切り、心行くまで描くことができる」。そのような生活に、彼は何時から憧れていたのだろうか。第2次大戦の敗戦直後、40歳代で東京拘置所の分類部長を務めたときもそうだった。1950年代から60年代にかけて、12年間も勤務した浦和少年鑑別所長時代も、60年代末、退官間際の東京少年鑑別所長の1年余りもそうだった。もしかしたら、29年間に及ぶ官僚生活の間、ずっと、心の底で、「絵を心行くまで描きたい」と念じ続けていたのかもしれない。

  惜別してくれた「ネリカン」職員に驚く

  法務省差し回しのハイヤーから見える川越街道周辺の風景は、7月の灼熱の太陽の下で揺れていた。街道と並行して走る東武東上線の常盤台駅までにあるのは、低層の粗末なコンクリートビル、せいぜい2階建ての住宅と、広い野菜畑だけである。車窓を走り去る、こんな単調な風景を追いながら、彼は、30分前に東京少年鑑別所の正面玄関前で、彼の退官を惜しんでくれた多くの男女職員の顔を思い浮かべて、しばし、センチメンタルな気分に浸たった。
 歴史が古く、東京都練馬区にあることから「ネリカン」の俗称で呼ばれることが多い東京少年鑑別所は、全国に配置されている少年鑑別所の頂点にあり、その所長は少年鑑別所長のリーダーである。全国の少年鑑別所の要望をまとめて、法務省と交渉しなければならないこともしばしばある。しかし、彼は、リーダーとしての役割を十分に果たしたとはいえない。生来、日本人離れした個性派人間だから、他の所長たちとはかなり違った考えを抱いている。また、東京帝国大学(現・東京大学)在学中から長期間、心理学を研究したせいか、学者気質が強く、法務省との交渉は「俗事に過ぎない」と考えている。
 リーダーとしての役割を周囲の期待ほどに果たさなかったことは、彼自身も自覚していた。したがって、70年7月、彼の退官に当たって、所長を歓送するために「ネリカン」の正面玄関に慣例どおりに並ぶスタッフは、尊敬のまなざしを送ることはあっても、惜別の情を体中に表すことはあるはずはないと考えていた。ところが、実際には、半分近い女子職員は目に涙を浮かべ、男子職員の中にも、涙を悟られまいと、うつむきながら拍手する者がかなりいたのだ。それに気付いたとき、彼は驚きの念に包まれるとともに、照れくささで身があぶられる思いでいっぱいになった。しかし、いつしか彼の目も潤み、驚きも照れくささも消えて、暖かい拍手の波間に、ごく自然に漂っている自分を発見した。
 川越街道を走るハイヤーの中で、その瞬間を思い出すと、30年近い官僚生活の中で一度も味わったことのなかったセンチメンタルな気持が湧き上がってくるのであった。なぜ職員たちは、所長としても個人主義を貫いてきた自分に対して、温かすぎるほどの惜別の情を示したのだろうか。彼は自問自答を繰り返してみる。だが、納得できるような答えは容易に思い浮かばない。やはり、69年1月、東大紛争で安田講堂を占拠した学生たちが警視庁機動隊に排除・逮捕され、未成年者が「ネリカン」に送り込まれた事件で、自分が学生に接した時の態度を評価してくれていたのだろうか。それとも、親分肌は論外としても、日常、職員に接する態度が、自身が感じていたより優しかったのだろうか。やはり、わからないと、彼は首を振り、視線を再び車窓の外に移した。
 彼は、犯罪を犯して少年鑑別所に送り込まれた青少年たちに接し、彼らの心理を観察・分析し、どのように補導したらいいかを考察することを、決して嫌いではなかった。観察・分析方法や補導方針についての専門書も相当数書いている。いくつかの大学で、青少年問題や犯罪心理学の講座を担当したこともある。しかし、29年間を通じて、それらの問題を扱うことを「天職」と感じたことは一度もなかった。「天職」という言葉が頭をよぎり、それについて考え始めると、彼の頭の中には、必ず、過去に描いたか、描きたいと思った情景や、人物、静物が浮かび上がってくる。そして、それらに没入し、我を忘れてしまうのだ。
 今もそうであった。数分前まで彼の頭を占めていた、熱っぽいまなざしで拍手しながら彼を見送る鑑別所スタッフの顔は完全に消え、鎌倉の、陽光にあふれた山と海、そして、さまざまな雲に彩られた空が浮かび上がった。「明日から、私はいつも、この風景の中にいるのだ。好きな対象を自由に選び、心行くまで描くことができる。描いて、描いて、描きまくることができる。いつか、鎌倉を描き切ってやろう。これこそ、私が長い間望んでいた至福の生活なのだ」。彼は心の中で叫び続けた。長い間、官僚生活の苦楽を共にしてきた妻が待つ鎌倉市稲村ガ崎の新居へ、いや、第二の人生へ向かう車の中で。61歳を迎えたばかりの彼の顔は、青年のように輝いていた。

  絵画漬けの毎日、憑かれたように描きまくる

  翌朝からの彼の行動は、新居のある鎌倉市稲村ガ崎5丁目の住民たちを驚かした。彼は早起き鳥のように、夜明けとともに起き出し、洗面する時間も惜しむように、絵を描く道具を背負って外に出る。そして、道路、公園の一角、原っぱ、学校の校庭、商店街などに陣取って、一日中、夕闇が迫るまで絵を描き続けるのである。「あの人は誰なんだろう」「絵に狂った素人なのか、プロの画家なのか」「あのおじさんは、いつ食事を摂っているのだろう」――住民たちは囁き合った。
 一週間ほどたつと、一帯の主婦の間に「あの大柄の初老のおじさんは要注意。他人の家の庭にずかずか入り込んできて、いろいろなものを持っていってしまう」という「警戒情報」が広がった。交番に通報した人もあったようで、若い警官が数時間、彼を尾行したこともある。
 ある日、夏椿がきれいに咲いている庭から一枝を持って出てきた彼に警官が尋問した。「その花はこの家から盗んできたのではありませんか」。彼は不思議そうな表情で警官を見つめていたが、やがて、静かな、しかし、断固たる口調で、こういった。「花泥棒は泥棒ではない。世阿弥の花伝書にもそう書いてあるよ。そんなことも知らないのか」。
 彼は若い警官の追及を逃れるためにこけ脅しをいったわけではない。彼は花を単なる描く対象と考えていなかった。「花も人間も同じ世界で生きている仲間だ。その美しさを自らの心に刻まずに、花の美しさを絵画に表現できるはずがない」と考えた。彼は花を前にしてその美しさを愛で、「お前の美しさを、私の絵筆の力で永遠のものにしてあげよう」と、心の中で語りかけながら、枝を折り、茎を切ったのだ。彼にとって、花は誰かの所有物ではなく、大自然が生きとし生けるものに与えた美の一形態に過ぎなかった。
 彼は、花の美しさを次のように詠っている。


  芳り

白き香りは 水蓮の花
水面に揺れ 清らけく
佇む人の 心慰む

悲しきは
光洩る庭に 忍び咲く
しふき花 白き十字
心深く 古への夢
想い刻みぬ

憶い出はわが青春の花
白きアカシヤの花
むれかたまり咲き かそけき香
胸晴れて 心豊かに


  夕顔

夏の夕辺
極楽寺奥 そぞろ歩きて
夕顔の花おぼろ
眼に幻の如く
香あたりに ただよいて
いにしえの忍性の姿
幻の吾に近寄る心持ち


  谷戸の百合

はざまの花は
谷戸の白百合
をちこちに咲きかおる
さしのべし手に
つきし赤き花粉は
白き百合のもの
白き香
露含む谷合にみちてあり


 「注」しふき=どくだみ、 忍性=鎌倉時代、京から鎌倉に招かれ、薬師寺で庶民の脈をとった医僧 


  空・雲・海と格闘する日々 

  彼が第二の人生を送る場所として鎌倉を選んだ理由は、その自然の美しさにあった。湘南地方の明るい陽光の下で、四季を問わず、さまざまな樹々、無数の花々が姿と色彩を競い合う相模湾べりの古都である。彼は季節が変わるたびに、野山を彷徨し、住民たちが丹精した庭を経巡りながら、新しい美を発見し、心をときめかせた。
 だが、彼が樹木や花にも増して心を躍らせたのは、明るい陽光に映えて、時々刻々、微妙に変化し続ける空と雲、それに海の色であった。彼は死の直前まで「泰西名画の素晴らしさは空、雲と海の微妙な変化を追い続けていることである。これに比べて、日本の画家は、大家といえども、空や海をほとんど描いていない」と主張し、自ら空、雲、海と格闘した。画面の大半が雲と空が占めている、大胆な構図の大作もある。
 鎌倉の風景の中でも、彼が最も愛したのは稲村ガ崎であった。穏やかな波が寄せる砂浜から望む稲村ガ崎、雑木林に覆われた山から見下ろす稲村ガ崎。彼は約30年間、さまざまな稲村ガ崎を、詩を口ずさみながら描き続けた。


  稲村の山

谷戸の守り 鎌倉山の四方の山波
麓には葛の葉 尾花茂り
かきわけて 小路たどれば
林開け 霞消へ 気明きらけく
峠の風 さやかに
心洗わる
もとは鷹とまる二本松と言えるところ

逗子の岬 東に
丹沢の山波 西に
雲晴れて 風急にして
遠き大島 伊豆の山々
遥かに望みて
われ呆然と佇むばかり


  稲村の海

内辺なる海 岬なるところ
風なぎて 波静かに
磯の香ほのかに 心和らぐところ
遥けき沖は 紺碧に
白き潮路 流れ動かず
鳶のみ 高く舞う
磯寄せるは白きさざなみ
光通して薄緑


  稲村の里

海辺なる谷戸
風さやかに 梅の香みちて
もとほる人の心いざなう

里の家椿の木多く
山の辺は懸崖の大いなる樹
花散りて
小路を赤く
染め敷きぬ

この里 圍み守る山々は
尾根の木々に風動き
空高く鳶舞いて啼く声
竹ぶえの音に似る  


  「年間1000号以上描く」とプロ画家宣言

  彼が東京・練馬の東京少年鑑別所を職員たちに送られて離れ、鎌倉の新居に帰った晩、妻の寿美、心尽くしの祝いの膳を前にして、彼は「俺は1年に1000号以上描く」と宣言した。寿美は「素晴らしい心意気ね」と冗談めかして答えたが、心の底では、彼の宣言をまったく信じていなかった。彼の健康状態は勝れていなかったし、アマチュア画家の域を出ることはあるまい、と考えていたからである。しかし、彼女の予想はまったく当たらなかった。
 彼は、また、「俺はプロになる」と、プロ画家宣言をした。彼によると、毎日、キャンバスに向かい、年間1000号以上描くことをもってプロ画家の条件を満たすのではない。芸術的レベルが高ければ、いいのでもない。重要なのは美を追求する態度、しかも、そのために、自らの持つすべての精力と時間を注ぎ込むことをいとわない姿勢がプロの最大の条件であると、彼は心の底から信じた。
 したがって、家族でも、知人でも、彼をアマチュア画家扱いすると、猛然と反発した。「私は純粋に美を追求している。そのために全身全霊を傾けている。手遊びに絵を描いているのではない」というのである。寿美も、新生活が始まって一週間経つと、画家としての彼に対する認識を変えた。つい最近まで、法務官僚として働く一方で、アマチュア画家として県の展覧会などに出品していた頃と、美に対する姿勢が質的に大変化したことに気付いたからである。
 知人が花を携えて訪れたとする。彼は花を受け取ると、礼をいうのもそこそこに、花をアトリエに持ち込み、スケッチに熱中するのだ。ある時、スケッチもせず、花を食い入るように見つめていた。知人と寿美が不審に思って眺めていると、突然、一輪の花をむしって、ばらばらにしてしまった。寿美が驚いて、「あなた、何をなさるんです。せっかく頂いたものをばらばらにしてしまうのは失礼ではありませんか」と、止めようとした。彼は確信を持った表情で答えた。「こうしないと、花の構造が分からない。この花の美しさを正確に表現することができないのだよ」
 彼の絵画三昧の日々は、それから約12年間、画家生命の危機が突然、訪れるまで続く。絵は深みを増し、彼の周囲には若い女性の弟子を中心に、さまざまな人の輪が広がって行く。それは、彼の絵画への情熱と思考の芳醇さに魅せられた人々の輪であった。