[第2章] 誇り高き男の第一の人生

 
  玉生道経(たまにゅう・みちつね)は生まれつき誇り高い男であった。その「貴族性」と呼んでいいほどの誇りがどこから生まれたのかは分からない。たぶん、祖先からの「血筋」、ないし「玉生家の系譜」に対する自信と深く絡んでいるのではなかったか。
 玉生家は栃木県の中央部、鬼怒川の右岸に広がる肥沃な穀倉地帯に属する河内町の中央に位置する旧家である。同家に伝わる古文書によれば、初代当主は藤原勝経で、平安時代中期の1059年、何かの事情で京都から下野国(現在の栃木県)に下り、後に「玉生郷」と称された土地の領主となった。15世紀半ばには笠間城3万石を領したこともあるようだ。しかし、その後、一家は戦国時代の動乱の中で有為転変の運命にもてあそばれ、安土桃山時代末期の1597年、21代目の当主、玉生範昌が帰農し、江戸時代は宇都宮藩の下で大庄屋を務めた。
 大庄屋とは地方役人の一つで、農民身分としては最高の地位とされた。代官または郡奉行と、村役人との中間にあり、多くは苗字帯刀を許され、民政上の実力は藩の下級役人より強かったという。大庄屋は数カ村から数十カ村、最大は一郡を管轄し、多くの場合、自宅を役宅とし、年貢米の賦課や納入、普請場所の見分、用水の管理、資金や物品の監査、あるいは、御用金の調達などに当たった。(平凡社「日本史第事典」などによる)
 道経は誇り高い男であったが、「名家の末裔」に拘ったわけではなかった。彼は画家として暮らした時期はもちろん、官僚時代も自らの家柄をめったに口にしたことはない。せいぜい、彼が主宰する絵画の勉強会が終わって、お茶を飲みながら雑談にふけっている間に、冗談交じりに、「いまは絵の具だらけの、だらしない格好をした爺さんだが、祖先は一城の主だったんだ。知らんだろう」というくらいだった。

  知識人の矜持と名家の伝統

  しかし、心の中では、自らの行動と「名家の伝統」が結びついていたことは間違いない。それが彼の一生を律した「知識人としての矜持(きょうじ)」である。矜持は、人生の厳しい場面で、明確に現れるものである。彼は74歳の時、ほとんど失明状態に陥り、画家としての生命が絶たれることを覚悟して手術に臨んだ。その時、執刀した宮地誠二医師は「初対面の時から、並みの人ではないと感じた。失明の淵にあるのに、まったく動揺していなかった。我慢強い精神と澄み切った心境であることが、はっきり分かった」と述べている。
 自らの血の中に「名家の伝統」が脈々と流れているのを明確に意識しながら、「名家の末裔」であることをめったに名乗ろうとしなかったのは、玉生家に対する複雑な思いに由来しているように思われる。というのは、道経は玉生家の跡取りとなったが、元々は30代当主、勘蔵の娘、なおが茨城県土浦市にあった海老沢家に嫁ぎ、夫の大五郎との間で1909年(明治42年)に産んだ子であった。玉生家31代の当主、勘次郎に嫡男がいなかったため、玉生、海老沢両家の話し合いで、大五郎、なお夫妻が生した長男、道行は海老沢家を継ぎ、次男、道経は玉生家の跡継ぎになることに決定した。
 道経は、両家の協定に従って、旧制水戸高校卒業後、玉生姓を名乗り、東京帝国大学(現在の東大)文学部心理学科卒業後、女医だったふでを娶っている。もし、ふでが結婚後、短期間に病死しなかったなら、彼は旧家の大旦那――地域の名士という、現実とはまったく異なる道を辿ったと思われる。実際には、道経は妻の死後、程なくして玉生家を離れ、二度と戻らなかった。その理由を、道経は家族にもまったく語っていない。何か、彼が玉生家に留まりにくい事情があったのかもしれない。しかし、本当は、愛する新妻を失った悲嘆の中で、その地に留まりたくない気持ちと、学生時代、彼の心を捉えた民族芸術学の研究に復帰して人生をやり直したいという衝動が、地方の旧家での生活に別れを告げさせたのではないだろうか。
 道経が玉生家を好きになれなかった原因がもう一つありそうだ。それは、彼の生家である海老沢家と玉生家の性格の違いである。海老沢家は、かつて水戸藩の御典医を務めた家柄で、江戸時代、長期間、土浦藩の大庄屋の地位にあった。両家は、藩は違っても、ともに大庄屋だったので以前から付き合いがあり、海老沢大五郎と玉生なおの結婚も実現した。
しかし、玉生家が単に宇都宮藩の権力機構の一部であったのに対して、海老沢家は、権力機構の一部であるだけでなく、文化的雰囲気に溢れ、地域文化の擁護者の役目を果たしていた。
 道経が小学生だった大正初期、南画の大家といわれた小室翠雲が海老沢家に寄食し、画塾を開いていた。翠雲は初め、茨城県館林市を本拠として活躍していたが、南画の人気が先細りになったため、生活苦に陥り、海老沢家を頼ることになった。翠雲は十人余りの弟子を熱心に指導していたが、離れの座敷に続く廊下にちょこんと座って、習作を繰り返す若い画家たちを興味深げに見守る道経少年にも声をかけたり、絵を描かせたりした。
 道経が翠雲に弟子入りしたことはない。だが、翠雲の指導は喜んで受けていたようだ。「芥子園畫傳」(かいしえんがでん)は日本でも江戸時代に復刻された中国・文人画の初学者用入門書である。翆雲は道経にこの本の流儀に則って肖像画や花鳥風月を描かせている。翠雲は道経の画才を見抜いていたようで、父の大五郎に「息子さんを画家にする気はないか」と誘ったことがある。大五郎は喜んだが、道経の帝国大学進学を望んでいた母のなおは大反対で、この話はあっさりと流れた。

  道経少年を美の世界に誘った南画とピアノ

  道経自身は、画家になることが嫌だったわけではない。しかし、まだ小学生で、人生の将来を考えるのには幼すぎた。したがって、母の進学願望に父が譲歩して、進学の道が決まった時も「そんなものか」と感じたに過ぎない。とはいえ、翠雲が少年の前に開いてくれた南画の世界が、道経の美的感覚を目覚めさせたことは間違いないであろう。彼は、学生時代も、長い官僚時代も、手遊びにかなり多くの絵を描いているが、ことごとく洋画であった。ところが、彼が第2の人生に入って、油彩画に熱中し始めた時、絵の背後にぼかしのように浮かび上がってきたのは南画の世界であった。少年時代に埋め込まれた美意識が半世紀を経て甦ったのである。
 道経少年を、もう一つ、美の世界に誘ったのはピアノの音色であった。彼には一回り年上の姉・るみがいた。彼女は、道経が小学生の頃、上野の東京音楽学校(現在の東京芸大)に通っていた。色白の美人で、弟思いの女性だった。しかし、彼にとって、るみは愛に満ちた姉というより、この世の中の清浄なものの象徴であった。夏休みなど、朝晩、屋敷の中に響き渡る姉のピアノの音に浸りながら、心が清められていく快感を味わった。それが至福ともいえるものだったことは、道経が後年に書いた次の詩で明らかである。


  ピアノ

幼児の心に響きたるは
一生の想いを支配するや
幼児の識別能力外への反応は生死の選別
姉とは年遠い 吾は幼なく
姉は 上野の音楽学校 勉強家
我れは いたずらにいそしむ頃 わんぱくの見本

夏休み 姉のピアノの練習
我れにはその音色も ただの音の連続
たいくつに 窓辺に 頬杖ついて
時もてあます
次のいたずらのみチャンスを待ち
遠き山々近き川辺ながめていたり

高き山々 
すべて呑みつくすほどの 雲 むら雲
見る間に ひろがりて
見るに恐ろしきばかり
姉はただ ピアノたたきて
心 外にあらざれば
我もまた その恐ろしき雲
みすえてあり
さらに手を出すすきもなし ただ呆然たり

この世の 凡ておおう雲 重なる雲の内より
その重き雲かき分けて
近よれるは
一人の大いなるもの
水かき分ける如く 雲かき分けて
遥かに我をみすえつつ進む
我 声も出でざる驚き
白髪 大いなるひげ なびかせ
白衣の袖を ひるがえし 
うで 大きく広げつつ近よる

顔あくまで白く 鼻高く 白きひげ口かくれ
目は大きく 我を見る
我 驚きの内に
エホバの神なりと直感す
ただ その丈の 鮮明な印象
なぜ エホバの神なるや
なぜ 雲かき別けて
我に 近づくや
声も出ず 胸さわぐばかりのわれ 

驚きの前後 定かならず
響くは ピアノ 音の連続
たいくつな響のみ

我はこの大事件を
人に 語らず 姉にも父母にも
ただ 自らの いたずらとなまけのせいと想う
心に秘めて
今既に半世紀の余を経たり
幼き心はただ驚きの連続なりや


  この詩の主題はエホバのように見えるが、そうではない。道経は40歳代の前半にカソリックの洗礼を受けたが、それまではキリスト教徒でもユダヤ教徒でもなかった。幼時、憧れの女性でもあった姉の弾くピアノの音色を聴きながら、陶然とした気分で、夏空に広がる巨大な白雲を眺めた思い出は、初老期を迎えても、彼の脳裏に鮮明に残っていたのに違いない。そのピアノの響きの清浄さは、彼の心の中で、神々しさまで高められ、信仰の対象と結びついたのではないか。「退屈な響き」というような言葉は、「憧れの女性に対する甘美なあまえ」から発したものであろう。
 それにしても、幼少時に美術の芸術性だけでなく、音楽の美に目覚めたことは、道経の美的感覚の幅を広げ、また、いっそう研ぎすまされたものにした。その結果、彼は東京帝大――法務官僚の道を進みながらも、美的世界との繋がりを絶つことのない人生を送ることになる。

  民族芸術学にのめりこむ

  道経は大学で心理学を専攻した。しかし、彼が1年生の時、たまたま受講した宇野円空教授の宗教芸術学に魅せられ、同教授の元で民族芸術学の研究に身を入れた。宇野教授は国内の民族芸術だけでなく、インドネシア・スマトラ島の仏教遺跡やマレーシアの稲作儀礼を実地調査し、研究した、大正・昭和初期にはめずらしい国際性豊かな学者で、道経はその視野の広さと民族芸術の基盤となる哲学まで追究する宇野学の奥の深さに惹かれた。彼はアジア各地の民族芸術を研究するうちに、モンゴルに興味を抱くようになる。
 一方で、道経は人類学や美学にも研究の幅を広げ、各種の学術研究雑誌に論文や芸術論を執筆した。そして、大学卒業が近づいた頃、その芸術論が高い評価を受け、当時、東京美術学校(現在の東京芸大)校長だった和田英作と、教頭を務めていた、傑作「あやめの衣」で有名な洋画家、岡田三郎助から、美校講師となり、矢代美術研究所で美学の研鑽を積むことを勧められた。
 もし、彼の人生が、このまま順調に進めば、道経は民族芸術学ないし美学の気鋭の研究者として、東京帝大教授か東京美術学校教授の道を歩んだ可能性は十分ある。しかし、人生の女神は、無垢の、希望と情熱に溢れた青年に対しても毒矢を放つことがある。それは彼女のジェラシーからきたものなのか、それとも、有能な青年を奮い立たせようという愛情なのだろうか。第一の毒矢は新妻の死、第二の毒矢は病魔である。
 道経は1937年、28歳の時、日本考古学会と東亜考古学会が共同派遣した学術調査団の社会学心理班員として蒙古(今のモンゴル)を訪れた。調査団で彼が割り当てられた役割は現地住民の心理学調査だったが、彼は日本とも繋がりの深いモンゴル文化に強い興味を抱いていた。彼は心理学調査とともに、独自の民族芸術に関する調査に熱中した。二つの調査の成果は道経を十分に満足させるものだった。
 だが、モンゴルでの生活が一ヶ月に近づいた、ある日、彼は激しい喀血に見舞われた。日本を離れる前、罹っていた結核が、生活環境の変化と二つの調査による激務で急速に悪化したのである。それから約一ヶ月、彼は専ら療養の生活をモンゴルで送り、幸いにも体調の安定を得て帰国するのだが、医療設備も整っていない当時のモンゴルで、彼はどのような療養生活を送ったのだろうか。詳しい記録は何も残していない。だが、後年、絵画の弟子だった若い女性たちと会食した折、冗談交じりにこんなことを話している。

  「病院といっても名ばかりで、近代的設備など何もなかった。それに、医者は漢方医なんだろうが、通訳を通しても、いっていることがまったく要領を得ない。病状は悪化する一方で、どうしたらいいかと途方に暮れていると、調査団の世話役を務めてくれていた貴族か元貴族が現れて、自分の家で療養した方がいいから、来いという。私は彼に従った。
 彼の屋敷の一角にある大きなゲルに一人、寝かされた。昼間は漢方医が薬を煎じてくれたり、小間使が食事を運んでくれたりするが、体力が衰えているから、ほとんど眠れない。ところが、夜になると、若い絶世の美女が現れて、絹の衣をハラリと脱ぎ捨て、私を裸で抱いて寝てくれる。その肌の温もりが気持ちよくて、熟睡できた。私は、モンゴルの若い美女から生命をもらって甦ったんだ」

  道経は喀血から2ヶ月余で帰国することができた。しかし、健康を回復して、普通の生活に復帰するまでには約3年間かかった。その間、彼は早稲田大学文学部で、トポロジー心理学の講師を務めたりしているが、定職らしい定職には就いていない。
 当時、彼はすでに玉生家を離れていたので、経済的に、その世話になることはできなかった。しかし、海老沢家も豊かで、弟思いの長兄、道行は、道経に経済的援助を与えることにやぶさかでなかったから、生活に困ることはなかった。生来、楽観的な道経は、世間の標準からすれば、気楽な療養生活を送っていた。時々、絵筆に親しみながら、健康を回復したら、民族芸術学の次の目標は何にしようかなどと考える毎日だった。頭の隅では、「画家への道を歩むことはできないだろうか」というほのかな希望も芽生えていた。
 しかし、第2次大戦に突き進みつつあった世相は道経の「甘い夢」を許さなかった。戦時色が強まる中で、画家として生計を立てることは考えられなかった。結核治療のためだといっても、成人男性が安閑と療養生活を送ることに対する世間の目も厳しくなった。そのような環境にあった道経を気遣ったのは道行である。彼は知人の伝手を頼って奔走し、弟が「身を固める」条件をつくっていった。道経にしてみれば多少の不満はあったが、暮らしにくさが募る世情を考えると、兄の厚情に従わざるをえなかった。
 当時、男性が「身を固める」のに不可欠の条件は、世間が評価するような定職を得ることと結婚であった。道経は1941年、大審院判事、三宅正太郎氏の推薦で、司法省の少年考査官に就任した。大審院は今日の最高裁、司法省は法務省である。少年考査官は、犯罪を犯した青少年たちをどのように扱い、補導するかについて、判定基準と処理システムを構築する役割を担わされていたようだ。当時の日本では、犯罪者を処罰し、かつ、更生させる科学的手法は欧米先進国に比べて非常に遅れていたが、青少年犯罪に関しては、方法論もシステムも無いに等しかった。

 [注] トポロジー心理学=ドイツに生まれ、米国で活躍した心理学者、クルト・レビン(Kurt Lewin 1890-1947)が開発・発展させた心理学。物理的環境から半ば独立した生活空間の概念を用いて人人間行動を理解しようとする

  「良家のお転婆娘」寿美に一目ぼれ

  道経は見合いの席で寿美を一目見た時、気に入った。彼女が生まれ育った森田家は、代々、裕福な実業家であったから、品のいいのは当然だが、165センチ近い大柄の体と細面の顔はモダンで明るい雰囲気を醸し出していた。道経は女性との付き合いに慎重な性格だったが、女性に対してはかなり強い興味を抱いており、観察眼も鋭い方だった。その彼の目に、寿美は「素晴らしい女性」と映ったのである。
 彼が、とりわけ好ましいと感じたのは、寿美が当時の若い女性としては珍しいほど強い個性を備えていることだった。彼女は、道経や道行夫妻の質問に淀みなく答えただけでなく、臆せず自分の意見を開陳した。「素人が、こんなことを申し上げるのは失礼かもしれませんが」といいながら、少年犯罪についても彼女なりの考え方を述べたことは、彼を驚かせた。美術と音楽については道経に負けないほどの知識を持っているのを知って、「結婚したら、二人で夕餉を摂りながら、印象派の絵画やベートーベンやモーツアルトについて話し合えるかもしれない」と、心をときめかせた。
 寿美は「良家のお転婆娘」であった。旧制女子中学校(今日の高等学校)の名門、四谷雙葉学園を卒業後、昭和初期の良家の慣習に従って花嫁修業を始めた。しかし、彼女は、一般の良家の子女の枠に収まる女性ではなかった。料理、裁縫、華道、茶道なども器用にこなしたが、それだけでは満足せず、さまざまな楽器の演奏、ダンスや衣服のデザインを専門家について学んだ。当時、女性にとっては最先端のレジャーとされた登山にも挑んだ。同年代の友人や、その親たちを仰天させたのは、自らデザインしたドレスなどのファッションショーを企画し、自らモデルとして登場したことである。
 20歳の春、華族の家柄のサラリーマンと結婚したが、1年足らずで、夫との「性格の違い」を理由に、寿美の方から離婚を申し出た。今日なら「性格の相違による離婚」はめずらしいことではないが、当時、妻の方からそのような離婚を申し出ることは「わがまま離婚」の典型として、世間から受け取られた。
 この批判は、わが道を行くお転婆娘にもかなり堪えた。彼女は、降り注ぐ非難を払い退けるように、離婚からの数年間、デザイン、ダンス、登山など趣味の世界にのめり込んで行く。毎晩、帰りの遅い寿美を横目で見ながら案じていたのは、道経の場合と同じように、寿美の親代わりの兄、俊彦であった。彼は自由を求める妹の心を理解していた。しかし、寿美の才能が豊かなだけに、このまま放って置いたら、当時の常識的な女性の生き方から大きく外れ、「鼻つまみ的な女性」として扱われることになりかねない。彼はそれを恐れた。
 俊彦は寿美を再婚させることを決意する。そんな彼に、友人の一人が、弟の再婚相手を探している玉生道行を紹介した。第2次大戦突入を前に、米国、英国などとの交渉が難航しつつあった、1941年のある初夏の宵、俊彦は寿美を自分の書斎に呼んだ。
 「わが国は米英との戦争に突入する可能性も高い。お前も身辺を整えておかなくてはいけない。いつまでも、好き放題をしていられる時代ではない。もう一度、結婚しなさい。相手は、ちょっと変わった人間のようだが、かえって、寿美にはお似合いかもしれない。一つ、はっきりいっておきたいことがある。今度、結婚したら、二度と我が家の敷居をまたいではならない。お前は添い遂げなくてはいけない。戦争が始まったら、私もどうなるかわからないのだから」
 兄の提案を素直に受け入れるのには、寿美の自由な生活への希求は強すぎた。しかし、現実を直視してみると、再婚話を拒否することの無謀さは、寿美にも理解できた。彼女は奥歯を噛み締めながら頷き、玉生道経との見合いを承諾した。

  独占欲の強い夫と耐える妻

  個性の強い男女の結婚は非常にうまくこともあるが、いがみ合いの果てに破綻する確率もかなり高い。道経と寿美の場合、寿美は道経が予想した通りであったが、寿美にとっての道経は、独占欲が強く、古いタイプの夫であった。道経が寿美を強く愛していたのは確かである。しかし、その愛し方は不器用極まりなく、できるかぎり寿美を自分の傍に置こうとした。夫が妻を独占し、妻の時間の使い方を夫が指示するのは当然、と考えていたのである。寿美は強い不満を抱いた。だが、じっと堪えた。感情が爆発しそうになるたびに、「今度の結婚は、添い遂げなければならない」という兄に言葉を脳裏に蘇らせて、自らをコントロールし、むしろ明るく振舞った。
 夫婦関係は、寿美の賢明さと忍耐によって、少なくとも表面上は、破綻なく経過した。寿美が高熱を出して起き上がれない時も、道経は「男子たるもの、厨房に入らず」と言い放って、彼女を助けようとしなかった。しかし、寿美は怒らず、這うようにして、夫と子ども2人のための食事を用意した。妻が苦しんでいる時に、あえて「男子、厨房に入らず」と言い出すのは、道経の持つ幼児性の一面であることを、寿美は理解していたからである。
とはいえ、寿美の忍耐をもってしても乗り越えられない問題が一つあった。長女の育て方をめぐる夫婦の考え方の相違である。
 結婚2年目に生まれた長女・尚子は道経と結婚する前の寿美に似て、奔放な性格の娘だった。小学生の時から社交好きで、ボーイフレンドも多かった。夏休みなど、いろいろな催しを企画して、その準備で夜遅く帰宅することもしばしばだった。道経は、それを許すことができなかった。彼は、たとえ、学園祭の準備のようなものであっても、夜、男女が長時間、一緒にいれば、男性は誘惑の手を女性に対して伸ばしたくなるものだと信じていた。したがって、親は娘を男性から守るために、危険な機会をつくらないように、あらゆる努力をしなければならないと考えた。
 尚子が地元・浦和市の高校を卒業後、東京都内のYMCAのスクールに通っている頃、道経は娘に午後8時の門限を課した。尚子は強い不満を抱きながらも、父の命令に従おうとした。しかし、午後8時になっても家にたどり着かないことが、時々あった。そういった時の道経の行動は異常ともいえるものだった。
 午後8時近くになると、ソワソワし始める。門限時間を7〜8分過ぎると我慢しきれなくなり、家の前の道路に出て、動物園の檻の中の熊のように、往ったり来たり歩き回る。そのうちに、高校生の息子を呼んで、「自転車で浦和駅まで行って、尚子が帰ってきたら、乗せて戻ってきなさい」と命じる。浦和駅から、当時、一家が住んでいた浦和少年鑑別所長の官舎まで、比較的暗い道を約15分、歩かなければならなかったが、尚子が悪い男に襲われかねないと、道経は本気で考えたのである。
 やっと帰宅した尚子の頬を、道経がいきなり叩いたこともあった。さすがに、こんな時は、寿美は「お父さん、止めてください」と叫んで二人の間に割って入った。その後も、「二十歳近くなった娘に、なぜ厳しい門限を課さなくてはならないのですか」「もっと、娘を信じてやることができないのですか」「娘を叩くことだけは、絶対に止めてください」と、精一杯の抗議を続けた。しかし、道経は娘に対する態度を変えようとしなかった。彼は、研究の主対象である犯罪心理学の影響からか、「若い男は性に飢えた狼のような存在でだ」と本気で信じており、「狼から娘を守るのは、父親としての欠くべからざる義務である」と思い定めていたからである。
 道経の、この単純性を理解してから、寿美は娘の育て方をめぐって夫と争うのを止めた。その一方で、尚子に「私が協力してあげるから、お父さんの目をごまかすように、巧妙に行動しなさい」といい、後には「あなたが結婚したい人ができたら、既成事実をつくってしまいなさい」とまでけしかけた。道経の家庭は、表面的には、彼が支配しているように見えたが、実際は、寿美の掌の上で動いていたのである。

  道経とマスコミを繋いだ寿美の才覚

  道経は鑑別所長を務める一方で、次第に日本社会福祉協議会理事に就任するなど、社会的活動も手懸けるようになる。当然、マスコミとの付き合いも増えていったが、生来、照れ屋の一面があり、早口の道経は、それが苦手であった。道経とマスコミの間に立って潤滑材の役割を果たしたのは寿美である。こんなエピソードがある。
 1960年代初めの初夏、駆け出しの若い新聞記者が浦和少年鑑別所所長の官舎に道経を訪ねた。玄関まで迎えに出た寿美は廊下を歩きながら記者に話しかけた。

  「主人の話す言葉を、貴方、分からないかもしれないわよ」
  「えツ、どうしてですか。日本語なんでしょう」
  「そりゃあ、そうよ。でも、2、3回会うまでは分からないと思うわよ」
  「・・・・・」
  「大丈夫よ。私が通訳してあげるから。安心しなさい」

  駆け出しの新聞記者は緊張気味に、当時、埼玉県内で急増していた非行少年を減らす方策について質問を始めた。若い記者を好きな道経は上機嫌で答える。ところが、記者には道経の言葉がほとんど理解できない。寿美の“通訳”の力を借りて、やっと取材することができた。
 道経の話し方には、頭の回転の非常に速い人に特有の癖がある。舌のスピードが頭の回転についていかないので、時々、言葉をワン・フレーズかツー・フレーズ、省略してしまうのである。したがって、聞いている方にしてみれば、話が繋がらず、意味が通じない。寿美はこれを逆手にとって、難解な道経の話をユーモアを交えて“通訳”し、夫とマスコミの間を繋いだのである。寿美の努力と人柄のおかげで、道経の周囲には、若い新聞記者や、今日のNGO、NPOに当たるようなグループの若い男女の輪ができた。