[第3章] 挫折の連続だった29年間

 
  道経の周囲に若い男女が集まり、一種のサロンができたのは、彼が浦和と横浜の少年鑑別所長を務めた15年間である。若い人々の輪の中で、笑いと歓声に包まれながら数時間を過ごすことは、彼にとってかけがえのない喜びであった。しかし、若い人々が、潮が引くように去った時、鑑別所の所長室にいる時以上に孤独感を味わうのが常であった。若い人々を惹き付けているのは寿美の魅力であり、道経は呼ばれて、「インテリで、一風変わった寿美の夫」を演じているに過ぎないことを分かっていたからである。

  振り返ってみると、官僚として過ごした第一の人生の29年間、私的な生活も含めて、本当に心愉しむ時間は一時間も無かったといっていい。
 一人の司法技官として、犯罪者をどのように調べ、教育し、更正させたらいいかといった方法を研究することには、それなりに情熱を注ぐことはできた。犯罪者と接することには、恐怖心も手伝って、積極的ではなかったが、研究のために必要な時は厭わなかった。しかし、司法省本省や、刑務所、少年鑑別所などで、上司の気にいるように会議をまとめたり、官僚として出世することを人生の目的としている同僚と共同作業をすることには、まったく気乗りしなかった。
 私的な生活でも、司法技官として、課長、部長、所長と地位が上がるにしたがって、仕事上、まったく関係ない人たちからもチヤホヤされるようになった。寿美の魅力に惹かれて道経夫婦の周囲に集まる若い人々にしても、彼を本当の仲間として扱うのではなく、「司法省(今日の法務省)高官に名を連ねはじめた、一段上の人」として見ているのは明らかであった。
 道経にとっては、そのように見られ、お世辞交じりの言葉をかけられるのが、嫌で仕方がなかった。若い人々には、「表面的な付き合いではなく、もっと人間的な付き合いをしようよ」といってもよかったのだが、彼自身も、自らの社会的地位を無視することができず、周囲の人々に調子を合わせた。そのような自分が、また嫌で、どうにもならなかった。

  苦心のアイデアを拒否される 最初の挫折を味わう

  道経は、太平洋戦争開戦直前の1941年夏、大審院判事の三宅正太郎氏の紹介で司法省に職を得たものの、サラリーマン生活は初めてだし、望んだ職場でないこともあって、なにかをしたいという意欲も湧かず、戸惑いながら、約1ヶ月を省内見学などで過ごした。上司の課長から「玉生君は何をやりたいのかね」と尋ねられた時は、頭の中が真っ白になり、「いろいろ考えているので、明日の朝まで待ってください」と答えるのが精一杯であった。
 当時の日本においては、犯罪者の扱いが、基本的には、江戸時代の町奉行の世界と同じで、欧米諸国に比較して科学性に著しく劣っていることが問題になっていたので、科学的な基準づくりに手を染めるのも悪くないと、いったんは考えた。だが、成人の、凶暴な犯罪者と対する毎日をイメージすると、率直にいって、怖かった。道経は翌朝、課長に「青少年犯罪に興味があります」と申し出た。こうして、彼の第一の人生の道筋が決まった。道経は、その年、新たに設けられた少年考査官の一人に任命された。

  新任の少年考査官として、やらなくてはならないことは山ほどあった。犯罪者をどのように分類して、どのように扱うか。成人と青少年の扱いは、どのように違えたらいいか。犯罪者に対する科学的調査方法の導入。効果的な面接方法ならびに面接室などの環境づくり。面接する技官が持つべき技術や心構え・・・という具合で、少し大げさにいえば、刑務所や少年鑑別所での犯罪者に対するソフトウェアをほとんどすべて変更するに等しかった。
 道経の健康状態は万全ではなかったが、32歳の彼にとって、活躍の舞台が広いことは意欲をそそる大きな要素であった。彼は欧米諸国の資料を読み漁るだけでなく、大学で学んだ心理学を犯罪者調査に応用しようと、著名な心理学者の著書を読み直した。その結果、彼の構想した「犯罪者に対する面接・矯正の方法」は、当時の日本における水準と比べて、非常に高く、スケールの大きいものであった。
 たとえば、犯罪者に対する調査・矯正技術の基礎として科学性の徹底を、道経は強く主張した。彼は「調査官は科学者の心を備えていなければならない」とし、さらに「科学者が持つべきもっとも重要なモットーは誠実さであり、科学的調査の基盤をなすのは科学者としての良心と飽くことなき真実追求の精神、さらに協同精神である」ことを強調した。彼は、真の科学者精神の持ち主として哲学者のカントとフィヒテを挙げている。また、「科学を政治的に歪めてはならない」と戒めている。
 協同精神の必要性については、興味あることを述べている。「科学はさまざまな業績の積み重ねであって、多くの人の協力が不可欠という点では音楽と同じだ」というのである。すなわち、「ヴァイオリンの演奏はピアノの協力を必要とし、オーケストラは協力の美の極致である」とする。彼の音楽へのこだわりを示す考え方である。しかし、一方で、「芸術家気質の人によく見られる、自らの個性を押し通すようなやり方は慎まなければならない」と発言している。これは、道経自身の従来の生き方に対する反省で、サラリーマンとして生きていかなければならないという自覚が芽生えていたことを示しているのかもしれない。
 道経は、上述のような科学的基盤の上に、調査官がなすべきことを具体的に列挙している。できるだけ多くの回数、観察すること、主観性を避けて、客観性を重視すること、いろいろ構えを変えて犯罪者に対すること、細部にこだわらず、常に全体を意識することなどである。しかし、彼が、調査官が犯罪者と面接する際に、最も重要だと指摘したのは「犯罪者に仲間ないし友人として接せよ」ということであった。相手の心を開かせ、真実を語らせるために欠かせないという理由からである。
 今日なら、保守的といわれる法務省内部でも、このような調査指針は抵抗なく受け入れられるであろう。しかし、1941年の状況はまったく違った。ベテランの調査官たちから「そんな生温いやり方で犯罪者の取調べはできない」「現場経験もほとんどない、入省したばかりの少年考査官が勝手なことを言うな」という批判がいっせいに挙がった。道経は「私は新奇な考えや方法論を主張しているわけではない。欧米各国ですでに数十年間実行され、実績を挙げているやり方だ」と、必死に反論した。だが、部門を統括する上司からも、「欧米諸国と日本は環境が大きく異なる」と、あっさり退けられてしまった。

  組織から受け入れられず、辞職も考慮

  彼は、内心、承服できなかった。リベラルな考えに基づいたやり方以外に犯罪者を真に矯正することはできないと信じていたので、粘り強く反論の機会を待った。しかし、太平洋戦争が勃発し、戦況が厳しくなるにしたがって、リベラルな考え方が世の中から受け入れられる余地はますます狭くなった。したがって、道経が有効な調査・矯正法と信じて打ち出すアイデアはことごとく否定され続けた。
 彼は一時、「自分の考えがまったく受け入れられない組織にいても意味がない。辞職しよう」と考えた。だが、三宅氏や兄・道行の「いまは非常時なのだから、我を張ってはいけない。何事も我慢、我慢だ」という言葉を思い出して、膨らむ不満にじっと耐えた。
 当時も、日本の官僚の習性になっていた、自ら進んで長いものに巻かれることは、道経にとって、最も苦手とすることであった。そこで、自分の信条は絶対に変えないが、表向きは、周囲の流れに掉(さお)ささないように見せかける行動パターンを苦心してつくり上げた。「理解力に優れているが、高踏的で、行動力に乏しい」という彼独特の官僚像は、そうした努力の結果、生まれたものであった。
 一見、矛盾するようだが、道経は挫折を味わった後も、官僚としての出世をまったく諦めたわけではない。そのせいか、本来の信条に反する行動をとる自分に毎日のように腹を立てながら、上司から「君も役人らしくなってきたね」などと声をかけられると、「まんざらでもない」と感ずることが多くなった。そして、3年目を迎えた頃には、二重性格的な官僚生活も板に付いたものになった。妻の寿美さえ、「お役人らしく生きる覚悟をしたようだ。もうトラブルメーカーにはならないだろう」と、安心感を抱いたほどであった。
 しかし、人生は一筋縄では行かないものである。自分で苦心惨憺して腹の虫を収めても、それを、また、起こしてしまう人間が現われることがあるのだ。
 道経が53年、浦和少年鑑別所長に就任して約半年経った頃、東京・渋谷にある有名な私立大学から週一回、臨床心理学の講座を開いてほしいという依頼が舞い込んだ。彼は、あまり気乗りしたわけではないが、官僚生活の気晴らしになればと考えて引き受けた。彼は約100人の若い学生を前に、同年代の青少年がなぜ犯罪や非行に走るようになったか、彼らを更正させるにはどうしたらいいかなどについて、熱っぽく語った。ところが、学生たちはまったく乗ってこない。それどころか、1時間余の講義が後半に入る頃には、居眠りしたり、私語にふける学生が続出する有様だ。
 道経は腹を立て、文学部長に対して、学生たちに厳重注意するよう申し入れた。しかし、部長の反応は、意外にも、「玉生さん、今時の学生はあんなものですよ。注意したって無駄です。教室内が騒々しくて、講義がやりにくくなったら、早めに打ち切ってもいいですよ」というものであった。道経は2ヶ月で講義への情熱を失った。

  忽然と現われた「心の友」 神の配剤か

  そんなある日、彼が二つの講義の合間に控室で、憮然とした表情でタバコを燻(くゆ)らせている時、岸恵子に似た顔立ちをした30歳前後の美形の女性が顔を出した。彼女は清原静子という大学事務局職員であった。しかし、並みの職員ではない。驚くほど多彩な能力を持つ。その後、40年間以上、道経の親友として付き合いが続くのだが、最後まで謎めいたところを秘めた女性であった。
 当時、彼女は日中、大学職員として働く一方で、夕方からは品川区立戸越小学校で、ヴォランテイアーとして、ダウン症や自閉症の障害児のための教室を主宰していた。品川区からの支援があったことはもちろんであるが、費用の不足分は彼女が個人的に寄付を集めていた。10人余のスタッフも、都内の大学などから自力で若い男女を募っていたという。このような事業を支えていたのは彼女が全国に張り巡らせた人的ネットワークで、実業家、経営者、学者、芸術家、政治家、官僚など、広範囲の分野の人々を含んでいた。
 静子は、浮かぬ顔をした道経に「教授や学生を相手に、だいぶ苦戦を強いられていらっしゃるようですわね」と笑いかけた。つられて苦笑する道経に、彼女は大学の実情を簡潔に説明した。それを聞いて、道経は二つの点で仰天した。まず、戦前から戦時中にかけて彼が勤務した大学と違って、アカデミックな気風が極めて薄いことである。しかも、大学の組織や運営方法が官庁と酷似(こくじ)している。
 彼が「それでは大学での講義が退屈至極な役所の仕事の息抜きにならないはずだ」と、溜息混じりにいうと、静子は「玉生先生は、やはり、そんなことを考えていらっしゃったのですね。失礼と思いながら、先日、一度、講義を聴かせていただきながら、そう感じました。でも、残念なことに、この大学には、教授にせよ、学生にせよ、先生のような方の情熱を理解できる人はほとんど居りません」と応じた。そして、「今日、先生のところに伺ったのは、そのことをお伝えするためだけではありません。私どもがやっている障害児教育の教育方法について、心理学の立場から助言をいただけたらと、講義を聴かせていただいた時から考えていたのです」と付け加えた。
 この時から、道経と静子は「心の友」となった。彼は静子に対して、司法省入省までの経過や、同省で体験した挫折、さらに、その後の満たされない官僚生活などについて、すべてをさらけ出したわけではない。しかし、彼女は、不思議なことに、これらをすべて理解しているようであった。だから、彼は何の遠慮もなしに、心の内を彼女に打ち明けることができた。道経は、彼の人生における静子の登場を「神の配剤」と感じた。
 道経は、もちろん、妻の寿美も、彼の官僚生活に対する不満や心の痛みを理解してくれていると考えていた。しかし、家族が刑務所内や、少年鑑別所に隣接した官舎に住んでいたこともあって、彼女に対する時は「官僚の仮面」を完全に脱ぐことはできなかった。いつの間にか、寿美との「半ば仮面をかぶった生活」に慣れてしまった、といった方がいいのかもしれない。
 静子はすぐに浦和少年鑑別所を訪ねてくるようになった。寿美や子供たちとも仲良くなり、その後40年間以上、玉生家にとって、家族同然の存在となった。
もっとも、道経にとって、静子の登場は、ある意味において、厄介なことであった。彼女に接すると、日常的には忘れていた不満や心の痛みを思い出すからである。しかし、その辛さ以上に、彼女との交流によって、彼の心は癒された。
 いつも、職場における道経は口数が少ない。上がってきた報告書を黙々と読み、指示を簡潔に記すと、秘書に短い指示を与えた上で、渡す。職員に話しかけることはほとんどない。官舎に引き上げると、多少、口数は増えるが、寿美の問いかけに対する答えと、彼女が俎上(そじょう)に載せた話題に感想を述べるくらいである。
 彼が多少、饒舌となり、笑顔を見せるのは、気のおけない友人が訪れた時と、寿美の努力で若い人々が集まった時だけであった。しかし、静子が訪れた時は、彼は別人のように饒舌になる。テーマは硬直化した役所や大学の組織と運営から、時事問題、絵画、音楽、文学、演劇、日舞、さらに歌舞伎、能にまで及んだ。静子が親しくしている音楽家、作家、日舞の家元らを連れてくることもしばしばだったが、そのような時は、席はいっそう盛り上がり、談笑は深夜まで続いた。

  世を憂える男女二人のキホーテ

  道経と静子が二人で話している時は、役所と大学の批判がテーマになることが多かった。1960年代半ばのある日の会話はこんな調子である。

 道経「先日、教授会から頼まれて、『社会の現状と教育の課題』というテーマで話をしました。今日のようなカネ万能の社会が続き、学生たちがそれを当然と考えるようになったら大変だ。教師たるもの、いまのうちに警告を発しなければいけない。また、学生の意識を変える上で、心理学的手法は非常に有用である。そんな趣旨でした。ところが、教授たちはほとんど興味を示さなかった。質問も見当外れのものばかり。『今の世の中が、本当にカネ万能の社会なんですかね』なんていう人まで現われました。皆さん、新聞もまともに読んでいらっしゃらないようですね」
 静子「世の中は急速に変化しているのに、講義の内容、教え方とも旧態依然の教授が圧倒的に多いんです。古い殻に閉じ籠もって、世界の流れに関心を持たない方が大部分でしょう。『うちは二流大学なんだから、先端的授業をする必要はない』と公然とおっしゃる教授もいます。これでは、学生さんが可哀想です」
 道経「法務官僚は法務省を二流官庁とは思っていないようですが、長いものに巻かれるのは仕方ない、という退嬰(たいえい)的な空気が瀰漫(びまん)している点では、大学と同じです。若い官僚が無気力な雰囲気に慣れ始めているのは深刻な問題です」
 静子「カネまみれの政治家が、カネ万能の社会を反省することはないだろうと、諦めています。でも、若い官僚や学生が無気力になるのは困ります。将来の日本が思いやられますね。障害児を含めた社会的弱者にとっては、絶望的な社会になりかねませんから」
 道経「それにしても、清原さん。大部分の人がカネ、カネと浮かれている時に、私たち二人が、こんなに真面目な議論をしているのは、どうしてなんでしょうか。二人とも、よほど変わり者なのですかね。調子が外れた人間なんでしょうか」
 静子「大学では、玉生先生のことを『ドンキホーテみたいな人』と陰口を叩く人もいます。そんな言い方はけしからんと思いますが、一方で、当たっているとも感じます。だって、ドンキホーテは、いくら世間から謗(そし)られても、自分の信念を貫こうとした人ですから。私は女ですけれど、ドンキホーテのような人物像に憧れます。障害児教育を白い目で見る人も多いのですが、私はそれを天職として、できるだけのことをしたいと考えています」
 道経「ところで、ある雑誌に発表した論文で、『PTAは、青少年非行防止には修身教育が必要などと唱えるのではなくて、自分の子供を良くするためには、まず、お隣の子供を良くしよう、という運動を展開した方がいい』と主張したら、PTA関係者から激しく批判された上、法務省本省からもお目玉を食いましたよ。どうして、こんな簡単なことが理解されないんでしょうね。ちょっと、悲しくなりました」
 静子「世間から批判され、蔑(さげす)まれても、人間性を忘れず、信念を貫こうとしている人を集めて、『ドンキホーテ会』でもつくりましょうか」(笑)

  燃やし続けた絵画と音楽への情熱

  道経と静子が会話を交わしている間、寿美は横に座って飲み物や水菓子の世話をしていることが多く、めったに口をさしはさまなかった。静子の意見にほとんど賛成であったが、内心、彼女の率直な発言が道経の官僚生活を乱しはしないかという、一抹の不安を抱いていた。しかし、それは寿美の杞憂(きゆう)であった。道経は静子との心の交流で、深夜近くまで盛り上がっても、翌朝には「官僚の顔」を取り戻し、少年鑑別所長の仕事を淡々とこなした。
 道経は清原静子という「心の友」を得ることによって、官僚としての仕事、とりわけ、少年非行防止への取り組みに、小さいが、確かな正義の炎を灯し続けることができた。また、日常生活では忘れかけている、絵画や音楽に対する情熱が、静子との心の交流によって、再び燃え上がってくるのを何度も実感した。埼玉県や神奈川県の県展に出品するため、1年に数枚描いていた絵画の深みも、年を経るにつれて、増したようである。

  三派全学連学生の心をほぐした“変人”所長

  道経の「第一の人生」官僚時代の唯一、最大のハイライトは、69年2月、少年鑑別所に多数、送り込まれてきた三派全学連の学生を短期間のうちに見事に処理したことであったろう。
 日米安保条約の期限切れを2年後に控えて、68年には三派全学連を中心とする学生たちが全国で学生同士の「内ゲバ」を含む暴力事件を頻発させ、世相は騒然としていた。東大、京大、日大をはじめとする多くの大学が学生の手で占拠されていた。そうした中で、政府は69年1月、激化する学生運動の象徴的事件であった東大・安田講堂を占拠する学生を排除することを決定し、警視庁に実行を命じた。警視庁機動隊は1月18日、安田講堂への突入を開始し、19日午後に占拠学生全員を逮捕・排除した。逮捕学生の中には多数の未成年者が含まれており、彼らは警察経由で東京少年鑑別所(通称「ネリカン」)に送られた。
 未成年者を受け入れた少年鑑別所では、心理学の知識を持った技官が面接調査に当たり、その資料を基に家庭裁判所での審判にかけ、不処分、教護院ないし少年院送り、家庭における保護観察という処置を決める。収容された青少年の少年鑑別所での滞在期間は最長4週間である。
 安田講堂で逮捕された学生たちが「ネリカン」に送り込まれることが決まった時、ネリカンの技官たちは戦々恐々の状態だった。これまで「ネリカン」に収容された青少年は、どちらかといえば下層階級の、あまり教育を受けていない者ばかりで、理屈で反論する若者、まして、東大生が入所することなど、まったく想定されていなかったからである。技官たちは、彼らをどう取り扱ったらいいのか、半ば混乱状態に陥った。
 2月初頭の週末、警察の護送車で送られてきた約70人の学生は、予想通り、技官たちをてこずらせた。鑑別所は彼らを本館から離れた東寮の単独室に収容し、技官が机とイスを持ち込んで、学生を木製ベッドに座らせて、鑑別調査を試みた。しかし、多くの学生が黙秘権を行使して、住所、氏名さえいわない。多少、返事をする者でも、技官が尋ねたことに答えるのではなく、「なぜ、われわれを拘束るすのか」「われわれに対して一身上のことを含めて質問する権利が、あなたたちにあるのか」といった抗議・反発が大部分であった。調書も取れない状態は1週間近く続いた。
 技官たちは次第に焦り出した。東寮から技官室に戻った彼らは、疲れきった表情でだるまストーブの周りに集まってくる。「どうしたらいいんだ」「まともな返事は、まったく返ってこないよ。もう、何を聞いたらいいか、わからなくなった」という愚痴のいい合いのような会話が、毎日、数時間も繰り返された。中には、「彼らが黙秘権を行使し続けたら、家裁の審判ではなく、一般の刑事裁判扱いにしてもいいことが法律的にも認められているわけだから、そうした方がいい」という意見もあった。
 しかし、当時の「ネリカン」は初代所長だった精神科医、成田勝郎氏の「鑑別所は青少年の心の病気を診て、場合によっては、治療する病院である。懲らしめる所ではない。彼らがやり直す指針を導き出さなくてはならない」という薫陶を受け継いでいた。したがって、収容された青少年たちが反抗するからといって、刑事裁判に委ねるようなことは軽々しく行なわなかった。技官たちは数日間、話し合った上で、玉生所長の指示を仰ぐことを決めたのである。
 リーダー格の技官3人の説明を聞いた道経は、心持ち、微笑みながら、「やはり、そうでしたか。そんなことだろうと思っていましたよ」と答えた後、しばらく沈黙した。そして、技官たちが思いもかけないことをいい出した。「私が学生たちと面接して見ましょう。あなた方のような現役の技官よりも、私みたいな、空気の抜けかけた風船のような老いぼれの方が、彼らは心を開きやすいかもしれないから」と。
 道経は、「ネリカン」に所長として赴任して以来、収容した青少年の面接結果を分析して、彼らをどのように扱うかについての指針を出すことには積極的であったが、自らが面接することに関しては、「興味もない」という態度を取り続けてきた。したがって、これまで、全国の少年鑑別所で例のない東大生の鑑別面接に道経が意欲を示すとは、「ネリカン」の誰も考えていなかった。だが、道経の頭の中には、3派全学連の学生が何を考えているかについてのイメージがほぼ出来上がっており、学生たちをコントロールする方法について、確信めいたものを抱いていたのである。

  学生運動リーダーと芸術論議

  その日の午後、道経はリーダー格の東大生Kが収容されている部屋に、パイプタバコをふかし、「ネリカンの老いぼれが、ちょっとお邪魔するよ」といいながら入っていった。Kは粗末な木製ベッドの上で胡坐をかき、入口に背を向けて座っていた。道経が「こんなところに入れられて、戸惑っているんじゃないか」と語りかけると、Kの肩にいっそう力が入るのが分かった。
 数分の沈黙の後、道経はKの背に「君は美術を好きかね。レオナルド・ダビンチのモナリザを見て、どんな感じを持ったか、聞かせてほしいもんだ」と声をかけたが、Kは振り向こうともしなかった。しかし、背中の微妙な動きから、Kが道経に技官に対するのとは違った印象を持ち始めたことを、道経は感じ取った。道経は、印象派の画家たち、とりわけ、セザンヌ、ルノワール、モネについて、常日頃、考えていることを述べた。
 道経は言葉を切って、Kの反応をうかがったが、Kは無言のままであった。道経は窓の外に広がっている庭に目を移した。高い金網に囲まれた広い庭は枯れた雑草で埋まっており、その中の、あちこちに、新年以来の暖冬に感覚を狂わしたのか、黄色や白の野菊が群れを成して咲いていた。真冬とは思えない強い日差しに照らされた野菊の色彩が白茶色の雑草に浮き立っている風景は、意外なほど清楚で、道経の絵心を刺激するほどであった。
 「ここの庭は印象派の絵のようですね」
 これが、Kがネリカンに収容されて初めて発した言葉であった。道経は、その瞬間、「Kは芸術を理解する感性を備えている」と直感した。それから約2時間、二人は美術論議に熱中した。テーマは印象派からピカソに進み、マテイス、ミロに及んだ。
 道経は、翌日も、黙秘権を行使している数人の学生を選んで芸術論議を仕掛けた。人生の先輩として芸術論や芸術観を教えるのではなく、若い学生と対等な立場で芸術を論じ合うという姿勢を貫いた。学生たちは素直であった。理論的にはつたなかったが、思いを素直に語った。不思議なことに、どの学生も論議が一段落した時、鑑別所の庭に目をやり、「いい風景ですね」という言葉を口にした。道経は、後年、次のように話している。
 「ネリカンの広い庭は、荒野と呼んでもいいほど荒れていました。常識的にいえば、いい庭でも、いい風景でもありません。しかし、学生たちは、東大紛争という烈しい経験の後、犯罪容疑者として少年鑑別所に収容されました。ショックは大きかったでしょうが、人生を見詰め直す機会を与えられたともいえます。荒野のような庭でも、そこには自然があります。自然の美が彼らに素直な心を取り戻させたのです」
 道経の学生に対する考察が正鵠(せいこく)を得ていたかどうかは分からない。だが、彼の歳不相応ともいえる自然美に対する純粋な感性が、学生たちに驚きを与え、心を開かせたことは間違いないであろう。
 道経と学生たちとの芸術論議を境に、学生たちの鑑別調査は急進展し始めた。黙秘権を行使する者はほとんど姿を消し、大部分の学生が調査に積極的に応じるようになった。その結果、鑑別調査は一ヶ月の時を要さず、終了したのである。