[第4章] 絵画制作に全力集中の毎日

 
  「第二の人生」をスタートさせた玉生道経の一日は、夜明けとともに始まる。周囲の山林に住む早起きの鳥たちが活動を始める前に、道経は隣で眠っている寿美を起こさないように注意しながら、寝床から抜け出す。洗面が終わると、寿美が前夜、整えて出しておいてくれた服を着る。明るい柄のニット製品の場合が多い。仕上げは眼鏡と帽子。眼鏡を洗面器の水でジャブジャブ洗う。タオルは絞って鉢巻のように巻き、その上からゴルフ帽を被る。そして、身繕いを確かめるように鏡に前に改めて立ち、「俺流のスタイルに仕上がっている」というように、ニコっと笑う。
 晴雨にかかわらず、スケッチ道具一式の入ったバッグを抱えて外に出る。道の左右に目を凝らしながら住宅街を通り抜け、山道に入る。時々、低い声でしゃべっているが、独り言ではない。木々に「葉ッパがいい色に染まったなあ」とか、鳥たちに「いい音色だよ」などと、語りかけているのである。道経にとっては、樹木も小鳥たちも人間と同じ仲間なのだ。

  自動車の警笛にも気付かず

  どこでも、絵心をそそられると、スケッチを始める。立ったままのこともあれば、座り込んでしまうこともある。スケッチにかかると、彼は対象に集中して、それ以外のことは、すべて忘れてしまう。鎌倉に移り住んだ最初の冬、見事に咲いた椿の群れを道路の真ん中で描き始めた。自動車がやって来て、クラクションを鳴らしたが、彼には聴こえない。運転していたサラリーマンが降りてきて声をかけたが、やはり聴こえない。道経が絵筆から手を離したのは、怒ったサラリーマンに肩を押されて、道路に転がった時だった。
 このような例が数回続き、近所の住民から通報を受けて事情を知った寿美や友人が道経に注意を促した。その時、彼はこう反論した。「絵を描く時には、対象に集中し、全身全霊を傾けることこそ、プロの画家の条件なんだ。僕は命がけで絵を描いている。この姿勢は、今後、どんなことがあっても変えることはできない」
 午前8時を回ると、彼はいったん、家路に就く。9時前には家に着いて、食卓に向かって座る。これは寿美を長時間待たせないようにするためではない。コーヒーを2度3度温め直すと、味が落ちてしまうからである。食事が始まると、彼は、その朝に遭遇したさまざまな出来事について寿美に話して聞かせる。彼女は微笑みながらそれを聞く。そして、道経と彼女の、その日の日程を手短かに説明する。説明に長い時間は絶対にかけない。道経が、その朝の出来事を話し終わってから数分たつと、その日、どこでどんな絵を描こうかということに頭を集中させて、寿美の話をほとんど聞いていないことを分かっているからである。
 画家としての人生に入ってから、道経の行動範囲は、日一日と広がっていった。初めは自宅近くの住宅街、次は周辺の山林、さらに稲村ガ崎や由比ガ浜、長者ヶ崎、久留和海岸などへと足を伸ばすようになった。市内でも、少し遠くに行く場合は、午前9時前に愛妻弁当を携えて家を出て、戻るのは日没近くであった。道経は絵を描くスピードが非常に速かったから、多くの場合、午後2時ごろには、持って出たキャンバスや絵具を使い切ってしまう。しかし、彼は家路に就こうとはしない。絵になりそうな対象を求めて、貪欲に歩き続けるのである。絵を描くのにふさわしい場所を見つけると、満足そうに頷きながら、バッグから筆と巻紙を取り出して書き留める。たとえ、会心の絵が描けない日でも、いい絵が描けそうな場所が見つかった時は、道経は上機嫌で家のドアを叩くのであった。
 道経の心のゴムまりは早朝の起床とともに膨らみ、自宅の門を転がり出ると、一日中、鎌倉の街を、周辺の丘、陽光に輝く海辺を、跳ね回り続けた。当時の心の躍動を、道経は次のように綴っている。


  私のステージ

パレットは 色のステージ
白黒は 明に応ずる冥(やみ)の世界の表現
赤は情熱の湧き出し
青は心深く引き込む宇宙の色
飛び出す色は黄色
緑は青と黄とのとまどいの色
多くの画家
夏の緑の風景を避ける
迷いの色の難しさに因(もと)あり
夏の風物描くに
日本の浴衣の紺 想えばよし
夏の緑の深きところ
マリンブルーにて
描けばさわやか

筆はカンバスの上の指揮棒
自在に振る舞う筆さばき
吾忘れ 自然に筆動けばよし
大小の筆 さまざまに用い
使い慣れたるか良き筆
絵は画布の上のオーケストラ


   風まかせ

良き風景にあいて
絵の心動きても
すぐには筆とらず
幻にあらずやと想いつつ
種々に想い凝らして
初めて筆とれば
心の余裕
絵の上の遊びをも
余白をも創らせる
選ぶ風景とよく遊び
自然と心を通じ
後は筆まかせ
筆 風とともに馳り
われ忘れ
自然のふところに抱かれて
あとは風まかせ 筆まかせ


  筆

絵は自然との語らいの窓
人間にとって描くことは生ける証

心に詩情動き
描かむとするものに
愛をそそぎ
大まかに構図をとり 面を分けて
彩色には よき音色出す

音色 美しくして
心に響き
メロデイの和あり

彩色は手早くこなして
迷いたるは空し
ざっくりと描き
どっと色置く
彩色は絵の命

好きな色選び
色の和美しく
心を定めて こだわらず
自然のリズムのままに
ざっくりと筆運ぶ  


  道経は、自然の中に身を置き、彼の絵心を刺激する対象を見つけると、一気に描き上げた。迷いや逡巡はほとんどなかった。対象の美をいかに表現するかに身も心も集中し、エネルギーがほとばしって、迷いや逡巡を感ずる暇すらなかったからである。また、彼の頭には、対象に集中した瞬間に詩が湧き出してくる。したがって、彼は絵を描いている最中、詩を口ずさんでいることが多かった。

  広告の裏などに詩をなぐり書き

  もし、道経が油絵や水彩画でなく、日本画を描いていたら、南画のように、詩を絵の空白に書き込んだであろう。しかし、実際には、そうできなかったので、道経は家に帰るや否や、和紙の巻紙と毛筆を取り出して、昼間、頭に浮かんだ詩をしたためた。
 自宅で静物の絵を制作中に生まれた詩は、周囲に置いた巻紙、広告の裏、テイシューボックスなど、あらゆるところに書きなぐった。ところが、彼は、次の瞬間には、どこに詩を書いたか忘れてしまい、詩のしたためられた巻紙で絵筆を拭ってしまうこともしばしばあったので、寿美は定期的に道経の周囲を巡回して、詩をなぐり書きした紙類を彼の手の届かないところに保管しなければならなかった。
 道経の頭と体の中では、常に絵画と音楽が結びついていた。「絵はカンバスの上のオーケストラ」というのは、単なる詩作上の表現でなく、実感そのものであった。彼は多くの色彩り豊かな大作を制作したが、その製作ぶりは、しなやかに指揮棒を揮いながら、オーケストラの並ぶ舞台上の空間を彩り豊かな音で埋めていく指揮者を髣髴(ほうふつ)させた。
 絵を描く速度が早く、超多作であることも、彼の自慢の一つであった。超多作の結果、カンバス代金が膨大になるため、寿美はカンバス用の布を仕入れて、自家製のカンバスづくりに精を出した。そんな妻の苦労も知らぬ気に、道経は次のような主張を繰り返した。

  「才能豊かな画家は、みな多作である。ピカソ、ゴッホ、モネなどはその典型だ。沢山、描けるから、どんどん進歩することができる。私も同様だ。日本の巨匠といわれるような画家の中には寡作の人がかなり多いが、その原因は、才能に欠けているか、画商におもねっているかの、どちらかではないか」

  明るい性格、天衣無縫で、どんな人とも打ち解けて話をする人柄、教えを請う人を拒まない親切さ――これらが、すべて、道経と接する人々を引きつけ、彼を取り囲む人の輪は日に日に広がっていった。自宅の近所だけでなく、彼が絵の対象を求めて足繁く通う多くの場所の主婦、老人、子供たちの大部分は、間もなく、彼のフアンになった。警察署、郵便局、消防署などでは、彼が訪れると、手すきの署員、局員が集まって、絵画問答や、日常的な出来事を巡る討論集会が始まるのであった。
 自宅には、教会の神父がよく訪れたが、“説教”をしている時間は神父より道経の方が長かった。新興宗教の人々が彼を折伏しようと押しかけると、道経は彼らをアトリエに導き、逆に説き伏せて、「なまくら問答なら、僕のほうが強いよ。お帰り」と、嬉しそうに送り出した。

   絵画グループ「春樹会」の結成へ

  人を引きつけたのは人柄ばかりではない。道経に独特な画風も、とりわけ、若い女性を中心に人気を集めた。1,2年たつと、彼女たちが中心になってグループができ、「春樹
会」に発展して行った。もちろん、グループ活動の主目的は道経から絵画とは何か、どのように描けばいいのかを学ぶことにあったが、話し上手、料理上手の寿美から人生の生き方を学ぶことも、彼女たちにとっては魅力的だったようだ。
 道経による絵の指導が一段落すると、彼女たちは茶の間に移動して、寿美が供するケーキや紅茶を口にしながら、彼女の話に耳を傾ける。寿美の話は話題豊富であった。夫婦生活のあや、子育ての苦心談、料理のコツ、ファッション、さらに、皇室のゴシップ、かなり際どいセックス絡みの話題にまで及んだから、常に座は盛り上がった。それは、寿美を中心とするサロンの感さえあった。道経はいつも寿美の隣に陣取って、華やかな雰囲気を愉しんでいた。
 寿美は、また、人使いの名人でもあった。彼女が77年7月、死去するまで、毎年暮れに、女性の弟子全員を集めて行なう大掃除の、寿美の指揮ぶりは、近所の人たちが感嘆するほどの見事さであった。道経は最初の小品展を73年、鎌倉市内で、第1回の油彩展「鎌倉の四季」を74年、東京・銀座・松坂屋で、それぞれ催しているが、会場の設営や作品の搬入、訪れる客の応接などは寿美の指揮の下に弟子たちが一糸乱れぬ働き振りを見せなければ、成功を博すことはできなかったであろう。
 春樹会が正式に結成されたのは78年。同年5月と9月の2回、油彩展を鎌倉市内で開催した。50余人いた会員の中には男性もかなり在籍していた。しかし、不思議なことに、長続きした男性会員は少なかった。とりわけ、口数の多い男性に対して、道経は敵意と思われるようなものまで示した。ある女性の弟子は「玉生先生より口数の多い弟子は、一人もいませんでした。でも、先生は発言の多い男性について、しばしば、“あいつは、おしゃべりだ”と、吐き捨てるようにおっしゃっていました」と話している。
 道経が市内の絵の対象となる場所をくまなく歩き、一箇所で最低3枚の絵を描いた時、彼がプロ画家としてスタートしてから10ヶ月がたっていた。彼の胸の中では、「もっと遠くに出かけて、新しい風景の中で、もっと、いろいろな絵を描きたい」という意欲が爆発しそうになっていた。しかし、彼も寿美も自動車の運転ができなかった。また、体がそれほど丈夫ではない彼にとって、重い道具を担いで電車やバスで遠出するのは無理であった。そこで、彼は、女性の弟子の中で、車の運転ができて、時間的余裕のありそうな人をリストアップした。
 条件にかなう3人のうち、道経が最初に声をかけたのは稲田朋子であった。彼女は鎌倉市内に住む30歳を少し超えた主婦であったが、子供はいず、夫は大阪に単身赴任していた。彼女だけ鎌倉に残ったのは、夫の両親である元裁判官夫婦の面倒を見るためであった。しかし、当時、夫婦の健康状態はよく、身の回りのことは自分で処理するタイプであったため、朋子は自由で、時間を持て余すほどであった。彼女は道経の依頼に喜んで応じた。

   佳境に入る道経の画家生活

  朋子の運転する車で遠出する朝、道経はいつもに増して早起きをする。遠足の朝を迎えた小学生のように、嬉しくて、早く目が覚めてしまうし、寝床でじっとしていられないのである。寿美がつくってくれた軽い朝食を摂り、身支度を整えると、「ウオーミングアップだ」といいながら、家の内外をせわしく歩き回る。何回も手洗いに行く。寿美から「もう出る水分はないわよ」と笑われると、「じゃあ、番茶を一杯」と注文して、また、トイレに行く。
 午前8時過ぎ、朋子の車が到着すると、大はしゃぎである。「やあ、今朝の朋子さんは、いつもより、いっそう綺麗だね」「いい車だなあ」などといいながら、さっさと助手席に乗り込む。一抱えもある絵道具の包み、大小のキャンバスと、昼食用のおにぎり、好物の羊羹、お茶のポットなどの入ったナップサックは、寿美が後部座席に運び込む。朋子は、道経から「この車、最後の整備は何時?」などと問われて、いささか緊張の表情だ。
車が走り出すと、さっそく、道経の「講義」が始まる。たとえば、こんな調子である。

  「朋子さんは夜明けの海岸で海を見たことがあるかな。海の彼方が薄明るくなり、やがて雲が色づく。深い緑色とも見える波のうねりに白く散る波頭が光り始める。そして、真紅の太陽が昇る。めくるめく自分が自然の中にのまれる。こういう状況をイメージしてみてください。
 今度は夕方の情景だよ。落陽が空を茜色に染める。紫に暮れなずむ山脈(やまなみ)は人の心を溶かす。これら万象のうつろいは、とうてい人の力で表現できないと知りながら、これを描かざるをえないのが人間なのです。そして、この震えるような感動を心に深く刻み込み、それを表現して、絵画を愛する、すべての人々とともに喜びたいと思います。
 人間は、大自然の雄大さと繊細さと調和ある動きに接して、ただ呆然となります。そして、自らが創造主の愛を受けて生きていることを知るのです。唯一者の啓示の前に立ちすくみます。それを感じる心情はだれでも持っているのです。
 この絶対的な何ものかが、人間の格調高い詩を誘い、そして、人間に絵筆をとらせるのです。幾万年の民族の歴史がこの事実を証明しています。分かりますね」

  最初、朋子は戸惑った。「なぜ、こんな高尚な講義を私に向かってするのだろう」「玉生先生は相手を間違えているのではないか」「もしかしたら、私を誤解しているのではないだろうか」と考えもした。しかし、朋子が運転する車で遠出するたびに、「講義」は繰り返された。しかも、朋子が運転している間、ほとんど途切れることなく、である。朋子も次第に「講義」に慣れていった。

  「人の一生は天から与えられたものです。貰ったものではありません。一時、預かったものかもしれません。人は一にして多、多にして一なるもの。少にして大、大にして小、繊細にして偉大なるものです。
 生き生きと日々を暮らし、外なるものを観ながら、内なる己を見つめるのが真の人間です。懸命に働いて途をたどり、生き甲斐のあるところを尋ねるのです。道を求めて心を開き、絵を描いて喜びを知るのです。
 綺麗な飾り、すなわち、Beautyとしての絵を得ると同時に、天への窓として美しい絵、すなわち、Fineを創ることは、唯一なるものとの語り合いなのです。それが人々と共にあれば、いっそう素晴らしいことだと思います」

  これは「講義」というより、道経の信念に基づいた「説教」といった方がいいかもしれない。しかし、彼の頭の中では、自然と宇宙観と美的意識は一体をなしていたので、「講義」は極く自然の形で「説教」に変わった。彼にとっては、「講義」と「説教」の区別はなかったといっていい。

  「描くことは神への奉仕」と信じる

  道経は絵を好きで好きでたまらないから描くのだが、それに止まらず、「描くことは天与のもの」と信じていた。すなわち、彼にとって絵を描くことは天命であり、単に美しい絵を描くのではなく、神への奉仕として描くのである。官僚として過ごした第一の人生で、こんなことを考えたことは一度もなかった。ところが、プロの画家として創作に熱中するうちに、「描くことは天与のもの」という思いが急速に募ってきたのである。
 それは、画家としての第2の人生に対する烈しいエネルギーの発露といってもいいだろう。宇宙に向かって発射されたロケットと同じように、いま、60歳を超えた道経の体の中で、新しい絵画を創造するためにエンジンが轟然とした響きをとどろかせていた。
 妻の寿美にしても、道経が、第1の人生では、仕事は半分、趣味半分のような毎日を送っていたのに、第2の人生に入った途端に、なぜ絵画創作に向かって突進し始めたのか、最初の数週間は釈然としなかった。だが、いっさいの妥協を排して、すべてのエネルギーを絵画に注ぎ込む道経を目の当たりにするうちに、彼が心の奥底から発している「自分はまだ人間として十分に生きていない。神から与えられた命を充足していない」「このままでは死んでも死に切れない」という必死の声を理解した。
 道経は、第一の人生においても、扱いにくい夫であった。妻として、不満を感じない日はないほどであったが、「2度目の離婚は許されない」という兄の言葉を肝に銘じて自分を抑えてきた。しかし、第二の人生に入ると、道経はさらに扱いにくくなった。いいたい放題、やりたい放題で、我慢や節約という言葉は彼の辞書にはなかった。見かねた娘の尚子や息子の弘昌が「少し、きつくたしなめた方がいいよ」というと、寿美は「天才芸術家は、こんなものよ」と、笑って取り合わなかった。
 寿美の腹は決まっていた。道経と結婚して約30年間、決して仲のいい夫婦ではなかった。言い争いはしばしばだったし、1週間以上の冷戦もめずらしくはなかった。しかし、彼女が道経との生活を我慢できたのは、夫も法務技官としての生活に満足しているのではなく、身すぎ世すぎのために耐えて生きていることを、肌身に感じていたからである。したがって、第2の人生に入って、彼の心底からの声を聞いた時、「たとえ経済的負担が重くても、思い切り絵を描かせてあげよう」「第2の人生は、彼の人間性を存分に発揮できるように過ごさせてあげなくてはならない」と決意したのである。

  車道の真ん中で絵を描きだす道経

  道経の「講義」が突然、中断するのは、彼が絵を描きたいと思う場所を見つけた時である。遠出した当初の頃、葉山町の御用邸近く、車が頻繁に通るメイン道路の交差点で、彼が「ここで止まって、ここで止まって」と叫んだのには、朋子は驚いた。彼女が交差点を5メートルほど越えた地点で停車すると、道経はスケッチブックを抱えて、車からさっさと降り、交差点の中に戻ってスケッチを始めた。「先生、危ない!」と、朋子が駆け寄って、彼を車道から歩道に引き上げようとしても、彼女の手を振り払って描き続ける。彼の直近を走る自動車の群れなど、周囲の状況はまったく無視しているのである。
 間もなく、交差点では、車の大渋滞が起き、駆けつけた警官が道経を交差点から連れ出し、厳しく注意した。そして、彼に「このような危険な行動は今後、とりません」と約束させた。しかし、道経は、朋子が10分ほど車を走らせ、フロントガラス越しに新しい風景が開けてくると、さっきの交差点での出来事など、すっかり忘れて、「ストップ、ストップ」と叫ぶのであった。
 道経は、ここでも、車が止まるやいなや、外に飛び出し、道路脇に陣取ってスケッチを始める。朋子は、車を交通障害にならない場所に導いた後、キャンバス、キャンバス立て、絵の具類、敷物、イスなどを、急いで道経が座っている場所まで運ぶ。そして、道経が命ずるままに、絵の具を調合したり、絵筆を差し出したりする。道経は絵の対象に目を向けたまま、朋子に次々に命じながら、創作に集中している。
寿美は、ある時、このような情景を目撃して、「まるで、殿様と家来みたいね」とつぶやいた。だが、朋子にとっては、道経をこのようにして助けることが、嬉しくてたまらなかった。
 道経は「これは企業秘密なんだが・・・」といいながら、色のつくり方や構図のとり方を教えてくれた。それ以上に朋子を喜ばせたのは、道経が体全体から発する創作のエネルギーの渦の中にいることだった。彼女自身は道経の命ずるままに絵の具を調合したり、絵筆やペーパーを手渡しているのに過ぎないのだが、いつの間にか道経の気が乗り移って、大自然の中で、キャンバスに向かって、創作という崇高な作業に従事している歓びに浸れたからである。
 それは、何回味わっても、不思議で、素晴らしい体験であった。道経と自分の周りに淡い色の輝いた膜がかかったような感じがして、目の前を行き交う自動車も、周囲を走り回る子供たちも、まったく気にならなくなってしまうのだ。二人を包む大気は純化され、描く対象は朋子の目にも刻々と迫ってくる。キャンバスが形や色で埋められていくのにしたがって、自分が自然と一体化していくことをひしひしと感じるのであった。

  描き終われば、次の「候補地」選び

  「よし、できたぞ!」という道経の明るい叫び声で、朋子は我に返る。絵画を制作中の道経は、無言か、口の中で詩をお経のように唱えているのだが、描き終わった途端に、言葉が堰を切ったように溢れ出てくる。それを聞きながら、朋子は急いでキャンバスや敷物、絵の具、絵筆などの後片付けにかかる。道経は決して手伝おうとしない。いま描いた対象を角度を変えて眺めているか、近くに花が咲いていれば、近づいて、花や葉の付き方を綿密に観察している。
 再びドライブに戻ると、道経は助手席から「そこを右に曲がって」とか「あの丘に登ってみよう」と、次々に注文を出す。次の機会に絵を描く場所を探しているのである。候補地が見つかると、朋子に車を止めさせ、20分近く歩き回る。このような時も、彼は自分の立っている場所が歩道か車道か、空き地か畑か、まったく頓着(とんじゃく)しないから、朋子が寄り添って、エスコートしなければならない。道経は、絵を描く時だけでなく、絵を描く場所を探す時も、対象に没入してしまい、自分の周囲のことを忘れてしまうのである。そのような時、朋子は「私が先生を守ってあげなくてはならない」という、一種の使命感に酔っている自分を感じていた。
 道経は絵を描く候補地選びにも疲れると、「朋子さん、静かな喫茶店かレストランを探してくれないか」と言い出す。朋子は静かで、見晴らしのいい喫茶店やレストランをあらかじめ調べておいて、道経を案内した。彼は、そうした店に入ると、ウェイターやウェイトレスの声も聞かずに、最も見晴らしのいい窓際の席へ直行した。そして、飲み物を注文するのも忘れて、「いいねえ、とてもいい景色だ」を連発するのであった。そして、道経の表情から、いま、彼が何を飲みたいか、食べたいかが分かる朋子が、2人分を注文し終わるのを潮時に、講義を再開するのである。

  さらに深く、鮮やかに、より大胆に

  当初、朋子と遠出し、絵画制作する場所は三浦半島の各地であった。とりわけ、相模湾を隔てて富士山を真正面に望む久留和海岸や、すがすがしい磯が広がる立石海岸にはしばしば通った。久留和海岸の駐車場の海岸寄りには、きれいな芝生が広がっている一角がある。ここに、どっかと胡坐をかいて、雄大な景色に挑んでゆく時、道経の頬は少年のように輝いていた。立石海岸では、磯に砕ける白い波、その彼方の紺碧の海、大空に浮かぶ雲の形と色の変化を、何時間も飽きず眺めていた。
 子安の里では、椿やねむの木を愛で、スケッチを繰り返した。また、農作業に勤しむ老婦人たちとの会話を愉しんだ。彼女たちも、道経を見付けると彼を取り囲み、彼の質問に競って答えた。
 ある時、道経と同年代の60歳代半ばの女性が絵の具で汚れた彼の手を見て、「旦那さんは、顔は色白だけど、手は私たちと同じに汚れているねえ。一緒にジャガイモの収穫をやらないかねえ」と誘った。その時、朋子は「これは、まずい」と、思わず道経の手を引いた。「私の手は創作で汚れたのだ。農作業で汚れた手とは違う」と怒り出すのではないかと考えたのだ。
 ところが、道経の反応はまったく違った。「いいねえ。僕もジャガイモ堀りを、一度、やってみたいと思っていたんだ」と畑に入り、農婦たちとともに働き始めたのである。彼は第1の人生だけでなく、第2の人生に入ってからも初めの頃は、高踏的な人間であった。しかし、自然と一体になって、毎日、絵画制作に勤しんでいるうちに、いつの間にか、大自然の下で、人生を懸命に生きる人間に貴賎の別はない、という心境に達していたのである。いや、それ以上に、人生を真摯に生きようとしている人々に共通している人間性の躍動感に深い歓びを感じるようになっていたに違いない。
 遠出創作が度重なるのにしたがって、遠出の距離は伸びていった。三浦半島の南端、城ヶ島から反転して、箱根、乙女峠、さらに、足は北に向かって、大山、丹沢山系にも及んだ。それとともに、道経の描く絵は深さと鋭さを増していった。構図はいっそう大胆になり、色彩はいっそう鮮やかに躍動した。この深さ、大胆さ、鮮やかさは、道経の心的状況をそのまま映したものといえるだろう。

  花開いた画家人生、次々と個展を

  1970年夏から82年までの約12年間余が、道経にとって、天真爛漫に、かつ、心楽しく絵画制作に没頭できた時期であった。毎年、数千号の制作量もさることながら、芸術性の向上も目覚しかった。78年、春樹会の結成に至る弟子集団も50人以上に達した。成果発表の場としての個展は、しばしば鎌倉市内や東京都内で開かれたが、その中心は、なんといっても、74年から91年まで毎年のように東京・銀座の松坂屋で開かれた「油彩展・鎌倉の四季」(84年以降は「油彩展・湘南の四季」)であった。
 いわゆる画壇の人々や画商との付き合いを好まなかった道経は画家として無名であった。その彼が都心のデパートで個展を華々しく開催できたのは、彼の友人で、当時の検事総長、大沢一郎が松坂屋美術部に紹介したことが大きい。松坂屋美術部の幹部は、道経のアトリエを訪れて驚いた。アトリエ中に明るく鮮やかな色彩が爆発していたからである。
 しかし、都心のデパートで個展を開くには、芸術性のレベルが高いだけでなく、一定以上の売り上げを保証できなければならない。言い換えれば、デパート側が画家に売り上げノルマを課すのである。ノルマを負った個展を催した経験のない道経は、いささか怯んだ。そこで踏み止まり、「乗りかかった船には乗りましょう。失敗したら、私が責任を取るわ」と言い切ったのは女傑の風があった妻の寿美であった。
 大がかりの個展を催すのには大変な労力と行き届いた神経が必要である。その両方を寿美が仕切り、まとめ上げた。
 鎌倉から東京・銀座まで、大小100点余の作品を梱包し、搬送する力仕事は男性の弟子たちに割り当てた。女性の弟子の中には、華道や書道、デザインなど、さまざまの道に通じた人がいたので、適材を適所に配せば、直ちにスマートな会場が出来上がった。個展開催中の受付や接客には寿美と弟子の女性たちが当たったが、彼女たちの献身的な姿勢と上品で華やかな雰囲気づくりが、個展を盛り上げたことは間違いない。
 寿美は、また、実家である森田家の人脈を利用して、皇族を含む有名人や資産家を招いた。彼らが道経の絵を買い上げる上客になったので、銀座・松坂屋の油彩展は14回にも及ぶことになったのである。
 この個展の陰の功労者は清原静子であった。静子は、長い間、青山学院大学の職員を務めており、道経とは、彼が浦和少年鑑別所長時代、同大学で講師として週数回、心理学を講義していた頃、肝胆相照らす間柄になった。彼女は、東京・大田区立戸越小学校で開いていた自閉症児童のための「ことばの教室」をはじめとする、いろいろなボランテイア活動を通じて、幅広い人脈を持っていて、彼女が道経のために招いた客も、かなりの数の絵を買い上げた。
 静子は鎌倉の道経のアトリエにも、度々、芸術家や、絵の好きな若い女性を連れて、訪れていて、道経のグループづくりに多大な貢献をしている。
道経の人生を振り返ってみると、不思議なのは、彼を献身的に助ける人物がしばしば現れることである。時期的には第2の人生に、人としては女性が圧倒的に多い。静子は道経の「献身的ファン」の典型であった。運転手兼助手を勤めた女性も朋子だけではない。少なくとも、あと2人はいる。遠出制作のための運転手を頼まれて断れなかった人の中には、これは男性だが、交番の警官や消防署員まで含まれているのである。

  小鳥や犬を喜々としてスケッチ

  永田一蔵は江ノ島電鉄稲村ヶ崎駅近くの交番に勤務する警官であった。福岡県の農村出身で、高校を卒業した後、横浜市郊外に嫁していた姉を頼って神奈川県に来て、県警警察官に任官した。性格が優しすぎたせいか、出世には縁遠く、49歳になっても巡査長止まりだった。しかし、交番勤務の警官として、通学する小学生や、駅を利用する老人たちを親身になって助け、面倒を見たので、近所の人々からは「一蔵さん」と呼ばれて愛されていた。
 一蔵は大の小鳥好きで、交番に出勤する時、いつも米かパン屑を一袋携えてきて、勤務の合間に、集まってくる雀やホウジロに餌を与えていた。小鳥たちは一蔵の優しさが分かるのか、彼の足元に集まり、彼の手から直接、餌をついばむ鳥もいた。この、心温まる風景に着目して、一蔵に媚態まで示すように見える小鳥たちをスケッチし始めたのが道経であった。
 二人は急速に親密になった。道経は、いつものように、饒舌に芸術論や宗教論を展開したが、一蔵が長年、観察してきた小鳥の生態についての話を始めると、黙って耳を傾けた。 
 道経は、これまで小鳥を描いたことがなかった。小鳥にも、犬や猫のような動物にも、興味がなかったからである。しかし、一蔵が小鳥に餌を与える風景は、なぜか道経の心を惹きつけた。一蔵の素朴な風貌のせいもあったかもしれないが、それ以上に、小鳥たちの愛くるしさが道経の心を捉えた。
 この変化は、道経にとっても、不思議に思えた。彼は、第一の人生で、日常的な雑事を極力避け、高踏的な世界に生きようと努めた。厨房に入らないばかりでなく、掃除、洗濯、庭の草取りから子供たちの世話に至るまで、いっさいを妻に任せた。犬、猫、小鳥を飼うことも、俗事であると見なして避けた。
 いま、一蔵の周りで嬉々として遊ぶ小鳥たちを描きながら振り返ってみると、道経は第一の人生でも子供や小鳥を嫌いではなかった。日常的に些事に巻き込まれるのが嫌で、子供や小鳥そのものに対して無関心を装ったのである。小鳥をスケッチする道経の脳裏には、しばしば、寿美にまとわりつくようにして遊ぶ幼い娘と息子の姿が浮かんだ。「あの頃は、どうして子供たちと自分も一緒に遊ぶ気にならなかったのだろうか。今なら、ごく自然に子供たちの手を取っていたろうに」という疑問が彼を捉えて離さなかった。
 道経は、第一の人生において、官僚が好きでないにもかかわらず、官僚になった。その結果、「官僚らしく生きなくてはならない」と常に考えながら生きるようになった。とりわけ、刑務所幹部や少年鑑別所長に就任してからは、「官僚のリーダーにふさわしい振る舞いをしなくてはいけない」という一種の脅迫概念を持つようになった。その意識は私生活にも反映した。日常的な雑事が苦手だったのは生来のものとしても、心の底では必ずしも嫌いではない子供や犬、猫、小鳥を避け続けたのは、それらに親しむことによって、自分が毎日、雑事に紛れる、平凡な人間と見られることを恐れたからではないだろうか。
 それは、団塊の世代などのサラリーマンが一介のサラリーマンと見なされるのを嫌い、心身とも疲れ果てていても、「企業戦士」と呼ばれることにこだわったのと一脈通じている。
 しかし、道経は、第2の人生に入ると、第1の人生では免れることのできなかった拘りが消え、ほぼ自然体で暮らせるようになった。その結果、遠出制作に赴いた先でたまたま出会った子供たちと楽しく遊べるようになり、小動物や小鳥のスケッチを積極的にするようになった。道経のこの変化について、寿美は長男・弘昌の妻・邦子に「お父さんは、お役人だった頃、私たちが考えている以上に、自分を押し殺していたのね。今こそ、人間らしく生きているのだから、多少のわがままは許してあげてほしいの」と、しばしば協力を求めた。
 道経とベテラン消防署員の塚本昭男とは、道経が消防署の前を通りかかるたびに立ち話をする程度の仲であった。親密になったのは、昭男が非番の日、散歩の際、連れていた秋田犬の「忠」が道経に親愛の情を示したのがきっかけである。道経は、第一の人生で、一度も犬を飼ったことがなかったから、いつの間にか、自分は犬に好かれていないと思うようになっていた。道で犬と会うと、無意識に避けてしまう。とりわけ、大きな犬はそうだった。
 ある日、体重が50キロを超す「忠」を連れた昭男に狭い切り通しで会った時、道経はとっさに道の反対側に逃げようとした。ところが、「忠」が昭男を引きずるようにして道経に突進してきた。恐怖心に襲われた道経はさらに逃げようとしたが、「忠」は道経を追い詰めると、尻尾を振りながら、道経の手や顔をなめ回し始めたのである。道経は驚いた。「飼い主と顔見知りといっても、初対面の犬が、なぜ自分にこのような親愛の情を示すのか」。だが、「忠」は、その後も道経と会うたびに擦り寄ってきて、親愛の情を示すのだ。不思議がる道経に、昭男は、その後、「犬は玉生先生と会った途端に、先生を仲間だと悟ったのです。先生の動物に対する優しさを感じ取ったのですよ」と繰り返し説明したが、道経は最後まで理解できなかったようである。
 しかし、「忠」と出会って以降、道経の犬に対する態度は明らかに変わった。まず、さまざまな犬の姿態を嬉々としてスケッチするようになった。もう一つは、道経流ではあるが、犬に愛情を注ぎ始めたことである。
 道経が「忠」と最初に出会ってから約半年たった、ある日、朋子が次の遠出制作の打ち合わせに、飼い犬の「レミ」を連れて道経宅を訪れた。東京家庭裁判所の調停委員に就任していた寿美が東京に出かけていたので、二人は邦子を加えてアトリエで話し合った。20分ほどたった頃、弘昌・邦子夫妻が飼っているメス犬、「コロ」の悲鳴が庭から聞こえた。
 朋子と邦子が飛び出してみると、レミがコロに馬乗りになって、烈しい交尾を始めていた。二人は2匹の犬の引き離しにかかったが、簡単には離せない。朋子と邦子がそれぞれの飼い犬にしがみついて、さらに力を込めているところに、道経が現われ、二人に静かな声をかけた。
 「そんなにしなくていいよ。ゆっくりさせてあげたまえ」

  警官と消防署員が遠出制作にお供したのは2回ずつ

  ところで、道経が一蔵と昭男に遠出制作のために車の運転を頼んだのは、朋子はじめ3人の女性がどうしても都合がつかない時だけであった。二人は、むしろ喜んで応じたが、実際に道経を乗せて車を運転したのは2回ずつに過ぎなかった。それは、道経がたびたび交通規則など無視して、道路の中央でも絵画制作に熱中してしまうからである。二人は仕事柄、明らかな交通違反の現場にいるわけにいかなかった。